小会議場のホワイトボードの右下に落ちていた犬も食わない手稿の切れ端(管理者B・Yより)

おしなべて夜半の夢はふくらし粉を混ぜた液体の白い泡のように、点線を辿ればまた同じ朝に着く。言葉を拾わなければ落ちてゆく。また言葉を生産するのだ。誰も聞こえない言葉。幾つも幾つもこぼれ落ちていった。吐いた言葉より飲み込んだ言葉の方がずっと多い。私は結局行かない旅行の夢を見る。夢の中ではあちこちへ行った。溶岩地帯では微かに見える黒く固まった溶岩の小島に飛び移りながら、追いかけて来る老いた鬼女から逃げた。幼い時は福助人形の被り物をした近所の男に連れ去られながら、追いかけて来る親族の顔が遠ざかっていくのを見た。いつかの校舎では死にゆく美しい幼馴染を布団に寝かして看取り、体育館には同級生たちが集まりスクリーンに映し出された私の醜態の鑑賞会。教室で美しい友人たちに叱責を受け、学業なんて放棄した心持ちで下校する。

夢の中ではどこへでもいける。夢の中では行けた場所がいくら歩いても見つからない。悪夢も逃げ出したい現実の中で見れば美しい夢だ。悪夢の現場に戻りたくてまた眠る。ただもう2度と見たくない悪夢もあった。歳を重ねる程にそれは生々しくなり、まだ青い野菜の様なえぐみが目覚めの頭の中に充満する。愚かな一日でも自分は元気だ。愚かな一日ほど生き生きし出すのだ。前途洋々な日は何かを損なうのが怖くて安心して過ごせない。自分を2文字で例えれば「弱虫」で間違いない。目を覚ませば虫、では無くて物心ついた頃から虫だった。

日の往来は幼い頃ほど退屈で、それでも新鮮に感じられた。今は退屈にも感じないくらいにそれを当たり前のこととして眺める。特別新鮮では無いがそれなりに感動する。それなりの感動。これすら感じなくなったらもう色々と潮時だろう。今はまだ良い。

好む好まざるに関  ず、大体が  美