文字で日々を持ち上げる

ワクチンの副反応が体に重たい。しかしこれは一過性のものだとわかっているから、人にうつすんじゃないかとか、もっと悪い状態になるんじゃないかとか、そう言うことを考えなくて済む。

しかし何故だか後ろ向きの思考になりがちで、未来に起こることがあらぬ方向へ向かうと考えてしまう。同世代の人間の活躍とか、国際行事の自分との無関係さとか、さらに言えばごく個人的な狭い範囲の活動すら目標ラインに達していないことの不安が我が身に降りてくる。

他者と比較する必要もなければ、今に集中して自分のやることをやれば良いだけのことなのにそれが鼓舞し続けなければままならない。置いていかれる様な感覚に襲われる。しかし鼓舞も大変だ。

応援団は炎天下で大声をあげて応援の対象になる人々を鼓舞するが、あれも応援の時間が決まっているからできることで、レスキューみたいに応援して欲しい時に連絡が来て駆けつけるスタイルだったら体がもたない。自分自身への鼓舞も同様で、実際に活動する部署の自分の調子が悪い時に、その都度、応援する部署の自分が駆けつけて、あれこれ今まで見聞きした中で有効に使えそうな言葉とか映像を注入しなければならない。頻繁に自信を無くされて、その度に駆けつけなければならないカロリーたるや、些かしんどいものがある。そのうち、お前良い加減にしっかりしろよ、と部署同士の争いが始まってしまう。その消火活動をする部署の経費も自分持ちだ。

歴史上の芸術家や若くして活躍する人間の文章などを読むと、皆ギラギラしていて、堂々としていて、非常に活動的で、人との交流を旺盛に行なっている。その様は自分の目には輝いて映る。しかし順風満帆なようで見えないところで必死にペダルを漕ぐ姿を想像すると、自分はこれでいいのだろうかと考えてしまう。

ナイーヴで貧弱で、誰かに支えてもらわなけれ自立ができないこの身の情けなさというものは、どこに売りに出したとしても値が付くような物では無く、価値をつけるためにはもっと努力を積まなければならない。そういう考えに陥る時は、自分には生まれた時点で価値があるとか、物事は積み上げるのでは無く積み減らすべきなのだとか、そういった言葉にも効能を感じなくなる。誰かの言葉をいくら注入しても、それはその時点でのその人の視野だから、励ましにはなっても結局のところ自分なりに考えて新しく生み直さないと、むしろ言葉が重荷になる。自分で考えることに手を抜き出すとかえって後々苦しくなる。

胸を張って真理に向かって走り続ける芸術家の潔さと頼もしさに憧れるが、臆病風がそれを吹き飛ばしてしまう。ウジウジと内省的に若者が悩んでいるのを見ると思わず顔を歪めてしまうが、残念なことに自分はそうして悩む人間の筆頭株だと思う。

ただの人である、とかただ生きるということの難しさを感じる。自分の中に何人もの自分がいるから、泰然自若で自分の作る物やアイデアを信じている自分の肩に全てを賭ければ良いにも関わらず、泣き言を言う自分の声が大きくなる事がある。細い板が目の前に伸びていて、その上を歩かなければならないわけではないのに、その板の外側を意図的に踏んで行くことは中々難しい。やっとのことで一日を乗り切っても、それが連なっていくから疲れてしまう。人の目とか、その辺りに浮遊している誰かの意識とか、集団の意志とか、日常の中に自分の身体を揺さぶる物事が沢山ある。そうして一人でに立てなくなり、空想して勝手な物語を組み立てたる。また言わなくても良いことを言う様に、書かなくても良いことを書く。

犬も食わないというが動物は何でも食べるなんていうのは失礼な話で、本当は人間と同じ様に自由に選択して好きなものを食べたいはずだ。「犬も食わない」のではなく「犬は食わない」、もしくは「犬が食わない」と言えばしっくり来る。なのでこれは犬は食わない文章なのだけれど、こうして書かないと日々が安定しない。誰も見なくとも、少なくとも自分が見ている。